英雄広場の見どころ|像が語るハンガリーの歴史と行き方(2026年版)
英雄広場(Hősök tere)のブロンズ像のうち5体は、完成当時のものではありません。1906年の列柱のその位置にはハプスブルク家の君主が立っていましたが、第二次世界大戦で被害を受けたあと、台座はその帝国と戦ったハンガリー人に渡されました。こうした背景を知っていると、ありがちな記念撮影の場が、7人のマジャル人族長から墓ではない石板まで、ハンガリーが自国の歴史をどう語ってきたかを読み解く場所に変わります。英雄広場はヴァイダフニャド城、セーチェニ温泉、動物園への市民公園(Városliget)の正門でもあるので、公園へ向かう人なら時間をとる価値があります。

地下鉄M1の英雄広場駅(Hősök tere)を出ると、階段を上りきる前から千年記念碑が視界いっぱいに広がります。これは偶然ではありません。アンドラーシ通りはまさにこの見え方を狙って造られ、広場全体が、千年の歴史の前で人を小さく感じさせるように設計されています。
広場はアンドラーシ通りの終点にあり、入場は無料で、世界遺産に登録され、24時間開いています。しっかり見て回るなら20〜30分ほどです。
造られた理由
英雄広場は、マジャル人の部族がカルパチア盆地に定住してから1,000年を記念して、1896年から1906年にかけて造られました。当時オーストリア=ハンガリー帝国の一部だったハンガリーは、この記念の年に大きなものを次々に建てました。ヨーロッパ大陸で最初の地下鉄、いまヴァイダフニャド城として知られる建築の空想の産物、全長2.3kmの儀礼用の大通り、そしてその締めくくりとしてのこの広場です。広場の配置を設計したのは建築家シッケダンツ・アルベルト(Schickedanz Albert)で、向かいのブダペスト国立西洋美術館も手がけました。像は彫刻家ザラ・ジェルジ(Zala György)が何年もかけて制作しました。
千年記念碑が表しているもの
柱。 頂上の大天使ガブリエルは、片手に聖イシュトヴァーンの聖冠を、もう片方の手に使徒の二重十字架を持っています。伝説によると、ガブリエルは教皇シルウェステル2世の夢に現れ、ハンガリー最初のキリスト教徒の王イシュトヴァーンに冠を送るよう告げました。ハンガリーの国家には神の後ろ盾がある、というのがこの記念碑の言い分です。柱の高さは36mで、アンドラーシ通りの端から端まで、視線の先に立ち続けます。
7人の族長。 柱の足もとにある7体の騎馬像は、895年ごろにカルパチア盆地の征服を率いたマジャル人の部族長たちです。アールパード(Árpád、正面中央に立ち、300年にわたって国を治めた王朝の祖)、エレド(Előd)、オンド(Ond)、コンド(Kond)、タシュ(Tas)、フバ(Huba)、テヘテム(Töhötöm)。彼らが実際にどんな姿だったかを示す記録はなく、この姿は19世紀の想像力によるものです。
列柱。 柱の後ろには半円形の列柱が2つ弧を描き、ハンガリーの君主と反乱の指導者の像が合わせて14体並んでいます。右側の列柱の最後の5体は、いずれもハプスブルク家の支配に対する反乱や独立戦争を率いた人物です。ボチカイ・イシュトヴァーン(Bocskai István)、ベトレン・ガーボル(Bethlen Gábor)、テケリ・イムレ(Thököly Imre)、ラーコーツィ・フェレンツ2世(II. Rákóczi Ferenc)、そして1848年革命の指導者コシュート・ラヨシュ(Kossuth Lajos)。これは偶然ではありません。1906年の記念碑では、その位置にフランツ・ヨーゼフ1世を含むハプスブルク家の君主5人が立っていました。ところが列柱は第二次世界大戦の市街戦で損傷し、戦後の共産党政府が再建したとき、ハプスブルク家の像は戻されませんでした。代わりに置かれたのは、かつて像が称えていたその帝国と戦ったハンガリー人です。台座に立つ英雄は時代ごとに選び直されてきたので、列柱を端から端まで読むと、ハンガリーが自国の物語をどう変えてきたかが手短にわかります。

英雄の記念石。 柱の手前、鉄の柵の向こうにある石板は、よく無名戦士の墓と呼ばれます。実際はそうではありません。遺骨は埋葬されておらず、「わが民族の自由と国家の独立のために命をささげた英雄たちの記憶に」ささげられた慰霊碑です。1929年に造られ、「国家の独立」という言葉が政治的に都合が悪いとして1951年に共産党政府が取り壊し、1956年、短命に終わったハンガリー革命のさなかに再建されました。
足もとにはさらに意外な事実があります。1878年に技師ジグモンディ・ヴィルモシュ(Zsigmondy Vilmos)が掘った深さ971mの自噴井戸で、毎分831リットル、74°Cの温泉水が湧いています。この湯は、市民公園の数百m奥にあるセーチェニ温泉に送られています。記念石の前に立つと、ブダペストでも特に深い温泉井戸の真上にいることになります。
この広場で起きたこと
英雄広場は、現代ハンガリーの重要な場面の舞台になってきました。なかでも大きいのは、1989年6月16日の出来事です。1956年革命での役割を理由に1958年にひそかに処刑された首相ナジ・イムレ(Nagy Imre)の改葬式に、25万人以上がここに集まりました。式典は生中継され、ハンガリーが共産主義と決別したことを象徴する光景になりました。この改葬式では若い政治家オルバーン・ヴィクトル(Orbán Viktor)がソ連軍のハンガリー撤退を求める演説をし、数十年後のいまも国を動かし続けるキャリアの出発点になりました。
広場では3月15日(1848年革命)と10月23日(1956年革命)の国の記念行事のほか、ときにはローマ教皇のミサや文化イベントも開かれます。10月23日の過ごし方は10月23日のブダペストのガイドにまとめています。
広場の両側の美術館
広場の両側には新古典主義の建物が2つ立っていて、どちらも同じ千年祭のために1906年ごろ完成しました。
北側のブダペスト国立西洋美術館(Szépművészeti Múzeum)は、ハンガリーが誇る海外美術のコレクションを持ち、ラファエロ、エル・グレコ、ゴヤ、モネの作品を、ルーヴル美術館のような混雑なしに見られます。常設展の料金は一般5,800フォリント(約2,800円)、対象者の半額料金が2,900フォリント(約1,400円)です(対象は6〜26歳または62〜70歳のEEA市民、年金受給者など)。対象の条件、最新の料金、開館時間は特別展によって変わるので、szepmuveszeti.huで確認してください。
向かいのミューチャルノク(Műcsarnok、クンストハレ)には常設のコレクションがなく、ハンガリーと海外の現代美術の展覧会を入れ替えながら開いています。チケットは展覧会ごとで、2026年10月に開催中の展覧会は一般1,500〜1,600フォリント(約740〜780円)、26歳未満の学生と年金受給者はその半額です。ブダペストカードがあれば無料で入れます。展示室は火〜日曜が17:45、木曜が19:45に閉まり、最終入場はその15分前です。開催中の展覧会はmucsarnok.huに載っています。ブダペストカードで得になる施設はブダペストカードのガイドにまとめています。
ミューチャルノクの料金と閉館時間は2026年10月16日にmucsarnok.huで確認。
※料金はフォリント表示で、支払うのも窓口でフォリントです。円換算は1フォリント=約0.49円(2026年11月3日のECB参考レートで換算)です。為替は変動するので、円の金額は目安としてご覧ください。
行き方と周辺の見どころ
地下鉄M1(黄色の路線で、1896年開業のヨーロッパ大陸最古の地下鉄)に乗り、英雄広場駅で降ります。駅は広場のすぐ下です。市中心部からアンドラーシ通りを端から端まで歩くと約45分で、途中でハンガリー国立歌劇場と恐怖の館(英語)の前を通ります。
広場の裏には市民公園が広がっています。ヴァイダフニャド城は公園に入って徒歩5分、その先にセーチェニ温泉、少し北にブダペスト動物園(英語)があります。英雄広場から始めて温泉で終える1日は、定番で理にかなったルートです。公園全体の構成、無料の場所、各チケットの料金は市民公園のガイド(英語)をご覧ください。
段取りを人に任せたいなら、アンドラーシ通りから英雄広場まで歩くガイド付きツアーが便利です。説明板をつなぎ合わせなくても、歴史をまとめて聞けます。
実用メモ
広場には日陰も雨風をしのぐ場所もまったくありません。夏は水と日焼け対策を、冬は風に備えた服装をしてください。広場そのものに公衆トイレはなく、いちばん近いのは美術館の中か、市民公園の奥です。広場には屋台も出ていないので、すっきりしている代わりに軽食もありません。食事は前後に済ませましょう。
混雑のピークは10:00〜16:00で、夏は特に観光バスが多くなります。早朝か夕方なら人が少なく、日没どきには石に当たる光もきれいです。
英雄広場は無料でいつでも開いていて、多くの旅行者が割く記念撮影の数分以上の価値があります。7人の族長と撤去されたハプスブルク家の像が何を語っているかがわかれば、広場はただの背景ではなくなり、造られたときの姿、つまり石に刻まれたハンガリー自身による歴史の語りとして見えてきます。
事前予約で窓口の列を避ける


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